本文へジャンプ

メッセージ集

土田帆山先生と私(その1)[寄稿者:佐々木徹悟様]

私と先生の出会い

私と先生の出会いは、今からほぼ60年ほど前、私が大虫小学校3,4年生の頃と思われます。先生は夏休みのある日、「書道の巡回指導」に来られたのです。
私の母は、私が寺生まれなので書を心得ていたほうが良いと思ったのか、小学校で放課後女先生について幾人かの生徒と一緒に習字を習うようにと言うので、そうしていたのです。

その女の先生が夏休みには大先生に来ていただき、本式の書の雰囲気を感じて欲しいと思って、帆山先生のご登場をお願いしたのでしょう。他の小学校でもそういう雰囲気だったと思いますので、「書道の巡回指導に来られた」と先述したのです。
この時はまだ「洗心書道会」とか「若越書道会」というのはなかったのかも知れないと思います。

先生のご指導は、まず一番、書き手を「褒める」と言う事だったと思います。習字を習い始めて1,2年の「ボクの字」がうまいはずはないのですが、先生は「ボクはうまいぞ」「誰に習ったのか、これはイケル」などとおっしゃって、「ボク」を良い気持ちにさせるのでした。また、先生の風貌がこれまた10歳前後の小学生には書道界の「大家」と思われて、つい乗せられてしまうほど、先生の指導時間は充実していました。

そのような体験の上にボクが「書道に熱中」すれば良かったのですが、自ら求めて進んだ道で無かったせいか、2年ほどでやめてしまいました。
先生との本当の「出会い」は、それから15年後、私が鯖江高校に勤めていた時、先生が武生高校から転勤して来られてからです。書道室横の教官室で空き時間に幼少のころ先生の巡回指導を受けた事や身の上話などお話しました。すると、その昔、私の父が在籍していた女学校に先生が信任され、戦死した父の葬儀に参列して下さった事をお聞きして、大変驚いた次第です。

そういうことで、また心がいささか「書」に傾きました。先生は私のために、中国唐時代の「顔眞卿」や晋時代の王魏之、王陽くの拓本刷り叢書本を専門店から取り寄せ、私には「顔眞卿」の書体が向いているのでは、と言われたのが印象的でした。
その他、先生の東京内地留学の手島右卿先生宅に起居、大先生から「二階に上がる時、お前の階段を踏む音が大きく乱雑」と言われたよ、とお聞きした。これは「書」と「心」が大きく繋がっているという事を大先生が注意されたのでは、と私は解釈しました。

また、先生は(橋本佐内の)「迷わず進め、最短路」という言葉が大好きで、「毎日朝2時に起きて練習をしている」との言。先生の大変な向上心に啓発されました。(その2へ続く)

ページの先頭へ
プロフィール
プロフィール
土田帆山について
メニュー
遺作展のご案内
洗心書道会について
師弟・盟友について
お問い合わせ

ページの先頭へ戻る